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【書評】芥川龍之介の『羅生門』のラストが衝撃すぎる!現代にも響くそのメッセージとは?

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JKエドモント_アップ

JK・エドモント

幼少時代に、とある儀式を遊び半分で実行、その日から精神の半分を“闇の住人”に支配されてしまう。強度の近視だが、レンズ越しの世界は“整い過ぎている”という理由から、普段は裸眼で過ごしている。

まずは芥川龍之介ってどんな人?

文豪って響きはかっこいいけど、実際どういう人だったの?

芥川龍之介(1892〜1927年)は、日本文学を代表する作家の一人です。名前を聞いたことがある人も多いかもしれませんが、どんな人生を送ったか知っていますか?

彼は明治・大正時代に活躍した天才的な文豪で、今でも彼の作品は多くの人に読まれ続けています。でも、実際にはかなり闇の深い人生を送っていたんですよね…。

龍之介は、幼い頃から本が大好きで、すでに学生時代から頭角を現していたんです。

彼の作品は短編が多く、「鼻」や「地獄変」、「羅生門」などが特に有名です。

どの作品も短いのにめちゃくちゃ深いテーマがあって、読むたびに「人間って、ほんと何なんだろう?」と考えさせられます。

とはいえ、龍之介の人生は順風満帆ではありませんでした。

彼は精神的に不安定な一面があり、晩年は心の病に苦しんでいたんです。

なんかね、常に何かに追い詰められている感じだったんじゃないかな…。

最終的には35歳という若さで自ら命を絶ってしまいますが、その背景には人間関係や時代のプレッシャー、そして彼自身が抱えていた深い「闇」があったと言われています。

特に「羅生門」は、そんな龍之介の心の闇がすごく反映された作品だと思います。

この背景を知ってから読むと、作品の見え方も変わるかもしれませんね!

『羅生門』のざっくりあらすじ!

どんなストーリーか一言で説明するなら…ホラー?それとも哲学?

芥川龍之介-羅生門-老婆

『羅生門』は、めちゃくちゃ短いお話なのに、その内容はかなり濃厚です。

物語の舞台は、荒廃した平安時代の京都。

羅生門っていう大きな荒れ果てた城門の下で、ある一人の男(下人)が雨宿りをしているところから始まります。

この下人、実は数日前に長年仕えていた主人から解雇されちゃって、もう完全に途方に暮れてるんです。

時代が時代だけに仕事を探すあてもなく、どうやって生きていけばいいか分からない…。

「生きるためには手段なんて選んでられないよな…」

「盗人になるしかないかもな…」

なーんて、かなり思い詰めているんだけど、その一歩を踏み出す度胸はこの下人にはありませんでした。

そんな中、雨風をしのぐために羅生門の上で夜を過ごそうと上がってみると、下人はさらに衝撃的な場面に出会っちゃうんです。

なんと、死体から髪の毛を抜き取っている老婆を目撃しちゃいます!

私も思わず「え!?何それ…キモっ!」って、声が出ちゃいました。

ここで下人は、迷いに迷った挙句、とんでもない決断をすることになります。

物語はこの後、一気に緊迫感が高まっていき、下人はどんな選択をするのか…最後までハラハラさせられる展開になっています。

短いけど、めっちゃインパクトのあるストーリーですよ!

え、これが本当の人間性!?羅生門に隠された深いテーマ

羅生門に込められた「善と悪」って?

『羅生門』を読むと、「人間って、こんなにも簡単に変わっちゃうの?」って思わず考えちゃいます。

この物語、実は「善と悪」の境界線がすごく曖昧に描かれているんですよね。

普通、物語の中では「主人公が悪を倒して正義が勝つ!」…みたいな分かりやすいテーマが多いけど、『羅生門』はそんなに単純じゃありません。

下人が仕事を失い、飢えに苦しんでいる状況で、目の前にいる老婆を見た時の気持ちを想像してみてください。

老婆は死体から髪の毛を引き抜いて売りさばこうとしていたんですけど、その行為は道徳的に考えたら間違いなくでしょう。

でも、老婆自身は、「自分だって生きるために仕方なくやってんだよ!」って言うわけですよ。これは、死ぬか生きるか状況下綺麗事がどこまで通用するかって話だと思います。

そして、ここが『羅生門』の最大のテーマ。

人間って、絶望的な状況に置かれると、道徳心や善悪の判断が一気に揺らぐ瞬間が訪れるんです。

下人も最初は老婆を見て「なんて酷いことをしているんだ」って憎悪してたのに、老婆の答えがあまりにも想定内の回答すぎて、すっかり失望してしまうんですが、

不思議と門の下にいたときにはなかった度胸が湧いてきて最後には自分自身もその「悪」に手を染めてしまうんです。…めっちゃ怖くない?

この物語は、人間の本能生きるためなら何でもするっていう、ちょっと冷たい現実を見せつけてくるんです。

善と悪が表裏一体で、状況次第で簡単にひっくり返るんだよっていうメッセージ、かなり強烈ですよね。

現代でも、自分が追い詰められたらどうなるんだろう…って、ちょっと考えさせられる部分がありました。

登場キャラ解説!下人と老婆の心理戦!?

彼らの選択って正解?それとも絶望の中での生き方?

『羅生門』に登場するのは、たった二人の主要キャラ、下人老婆です。

この二人のやり取りこそが物語の核であり、めっちゃ深い心理戦が繰り広げられるんです。

まず、下人は仕事を失って、飢えに苦しむ若い男性。自分の未来が見えず、「どうしよう、盗人になるしかないのかな…」って絶望の中で迷っています。

一方の老婆は、もっと過酷な現実に直面していて、もはや道徳なんてとうの昔にべちゃってて、生き延びるためなら何でもやっちゃいます。

現に老婆は死体から髪の毛をひんむしって、それを売りさばこうとしているんです。え…って感じだけど、老婆にとってはこれが「生きるための手段」なんですよね。

ここでのポイントは、下人老婆に対して最初は「なんて酷いことを!」って憎悪を感じていたのに、

老婆の口から出た「自分だって生きるために仕方なくやってんだよ!」という、あまりにもありきたりな言い訳が、下人の心をガラッと変えちゃうんです。

「そうか、こうやって生きるのもありかも…」って下人は徐々に老婆同調し始めるんです。

最初は「このBBA、最低!」って思っていたのに、最後には「いいこと教えてもらった♪」といわんばかりの心境の変化で…めっちゃ怖いですよね。

つまり、この物語の中での下人と老婆のやり取りは、単なる会話じゃなくて、精神的な攻防戦なんです。

下人は自分の道徳心と生きるための欲望の間で揺れ動き、最終的には欲望に負けてしまう。

この瞬間に、下人と老婆の立場が逆転するのが面白いところです。

下人が最初は哀れな境遇ながら道徳心から「善」を守ろうとしていたのに、最後には「悪」に転じてしまう。これがまさに、人間の弱さを描いた心理戦なんです。

ラストに衝撃!「羅生門」の結末が示すものは?

急展開すぎて思わず固まる!何が言いたかったの?

『羅生門』のラストは、もう本当に衝撃的です。

物語の最後、心が悪に染まった下人は、老婆に向かって「おれもこうしなければ餓死する身なのだ、恨まんでな」と言って老婆から着物ひんむいて蹴り倒してしまいます。

え!?老婆の悪行に憎悪してたあの下人が何でそんな蛮行を!?って感じですよね。

最初は、老婆の非道な行為に憎悪を感じていたのに、まさか最後に自分がもっと卑劣なことをするなんて…。

ここで大きな転換点が訪れます。

下人は、最初道徳心から立場に立っていたはずなのに、物語の最後ではに身を染めることを選んだんです。

このラストシーンが示しているのは、やっぱり人間の弱さなんですよね。極限状態に追い込まれたとき、道徳や正義の感覚は簡単に崩れ去ってしまう。

下人は、自分が「善」であろうとしていたけど、結局は老婆と同じ「悪」になってしまった。しかも、そのことに対して最後には何の迷いもなくなってしまうんです。

ここで芥川龍之介が伝えたかったことは、善と悪ってそんなに簡単に区別できるものじゃないということかもしれません。

ほんとこの物語は、複雑な人間の本質を鮮やかに描き出しています。

そして、このラストが「人間って怖いな…」って感じさせるのは、誰しもが追い詰められたときに、同じように自分を守るためなら手段を選ばない行動に出る可能性がある点です。

『羅生門』の結末は、そんな恐怖を強く突きつけてくるんですよね。

現代に繋がる「羅生門」…実は今の時代にピッタリかも?

100年経っても色褪せない!現代社会とのリンクを考えてみた

『羅生門』って、100年以上前に書かれた話なんだけど、実は現代にもすごく通じるところがあるんです。

今の社会だって、絶望的な状況や混乱に直面すると、誰もが「どうやって生きていったらいいの?」っていう問いに向き合わなきゃならない。

これって、実は『羅生門』の下人と同じ問題を現代でも感じることがあるんじゃないかなって思うんです。

例えば、今の時代でも経済危機とか、戦争による社会の不安定さが広がると、道徳倫理の基準が曖昧になったり、揺らいだりすることってありますよね。

人々が「生き残るためなら何でもする」って状況に追い込まれたら、誰もが善悪の境界を見失うかもしれないし、自分自身の正義感や価値観が揺らぐ瞬間が来るかもしれません。

下人も、もともとは善良な一市民だったはずなのに、社会の荒廃や自分の境遇が絶望的な状況に追い詰められて、最後には「生き延びるためなら仕方ない」っていう理由で悪に手を染めてしまいました。

これを、現代の状況に置き換えると、SNSでの誹謗中傷や、いま世界で起きている戦争が、まさに『羅生門』の教訓に通じる部分があると思います。

SNSでの誹謗中傷は、顔の見えない相手に対して正義のためとか「自分の意見を通すため」という大義名分のもとで、どんどんエスカレートしていくことがありますよね。

最初は少しの批判から始まったものが、気づけば悪意や憎しみが積もり、いつの間にか自分も加害者になってしまう。

下人が老婆を見て「悪だ」と非難していたのに、最後には自分がその「悪」を行うようになった展開と重なる部分があるんじゃないでしょうか。

また、戦争が引き起こすのは、まさに羅生門のような倫理観揺らぎです。

人々が生き残るために倫理を捨て、互いに憎み合い、最後には「自分が生き残るためには仕方ない」という理由で暴力や破壊行為に走ってしまう…。

つまり、『羅生門』が描く「善と悪の曖昧さ」や「生存のための葛藤」は、SNSや戦争の中にも見え隠れする教訓です。

善悪が明確に分けられない状況に追い込まれたとき、人間がどんな行動をとるのか。このテーマは、今もなお色褪せず、むしろ現代にこそ考えるべき問いかけとして響いてくるんです。

芥川龍之介のメッセージ!『羅生門』で何を伝えたかったの?

「善と悪の曖昧さ」や「生存のための葛藤」という深いテーマが…?

『羅生門』を通して、芥川龍之介が伝えたかったメッセージって何なんだろう?

一見すると、シンプルな話のように思えるけど、実はこの物語には善と悪の曖昧さ生存のための葛藤という、めちゃくちゃ深いテーマが隠されているんです。

まず、「善と悪の曖昧さ」。

普通、物語の中では善が勝って悪が滅びる、という単純な構図がよくありますよね。でも、『羅生門』ではそれが全然違います。

下人は最初、老婆の行為を「悪」だと断罪していました。彼の中には、道徳的な価値観がまだ残っていたんですよね。でも、物語が進むにつれて、その価値観がどんどん揺らいでいきます。

極限状態に追い込まれると、下人は自分の生き残りを優先してしまい、最終的には自らも「悪」に手を染めてしまう。つまり、この物語では善と悪」が絶対的なものではなく、状況次第で簡単に反転してしまうんです。

この曖昧さは、現実の社会にも通じるところがあると思います。私たちも日常生活の中で、何が善で何が悪かを判断するのが難しい瞬間に出会うことがありますよね。

芥川は、この『羅生門』を通して、人間絶対的善悪持たない存在であり、その判断時と状況によって簡単揺らぐものだ」ということを示しているんです。

そしてもう一つのテーマ、「生存のための葛藤」。

これは、まさに下人の選択を通して描かれている部分です。

下人は最初、道徳的な人間でありたいと願っていますが、現実の厳しさに直面することで、その理想を捨てざるを得なくなります。

老婆が自分の行為を「生きるため」と正当化していたように、下人も最終的には「生き延びるためには仕方ない」という理由で悪に走ります。

人間は、生き延びるためにどこまで道徳や価値観を捨てられるのか?この葛藤が、物語の核心にあります。

芥川がこの作品を通じて伝えたかったのは、人間の本質的な弱さかもしれません。

どんなに強い意志や信念を持っていても、状況によってはそれが崩れてしまうことがある。そして、それは誰にでも起こりうる。

『羅生門』を読むと、自分の中にも潜んでいるかもしれない「弱さ」や「迷い」に直面することになります。

芥川はこの作品を通して、私たちに人間とは何か?という深い問いを投げかけているんです。

そして、その問いの答えは決して簡単ではなく、読む人それぞれが自分自身で考えなければならない課題なのかもしれません。

最後に一言!『羅生門』を読んで思ったこと!

私も下人のことを非難できる立場にありません…

羅生門の下人のこと私は非難できません

『羅生門』を読んで改めて感じたこと。

それは、私も下人のことを非難できる立場じゃないってことです。

この物語の中で、下人がどんどん追い詰められて、自分を守るために「悪」に手を染めてしまうシーンがありますが、その気持ち、すごくよく分かるんです。

実は、私も中学生の時に似たような経験がありました。

ある日、友達が私の知らないところで、ちょっと悪ふざけというか、小さな悪事に手を染めていたんです。

具体的には、教室にある時計の針を10分遅らせて、それをみんなで笑っていた、そんな小さなイタズラでした。

私はそれが「なんかヤダな…」って思いつつも、でも、その時、私はその友達にハブられるのがこわくて、ずっと迷った挙句あげく、何も言えなかったんです…。

むしろ、その場の空気を読んで、一緒に笑ってしまった自分がいました。

その後、先生にそのイタズラがバレてしまって、犯人探しが始まったんですが、みんな知らん顔してて…、私は「自首して反省した方が…」って思いつつも、結局、何の勇気も出せませんでした。

「自分の立場を守るために、流されてしまった」んです。

まさに、下人が「生き延びるためには仕方ない」と思いながら老婆に同調し、悪に手を染める、その心理に通じるものを感じました。

当時は、ただ「みんなに嫌われたくない」っていう思いで、自分の中の善悪を曖昧にしてしまったんだなって、今振り返るとそう思います。

そして『羅生門』を読んだ今、あの時の自分を改めて思い出しました。

下人の行動も、あの時の私も、どちらも「弱さ」から来ているんですよね。極限状態に置かれたとき、人は思わぬ選択をしてしまうものなんだなって。

だけど、だからこそ、この物語は教訓にもなるんです。自分が追い詰められているとき、何が正しいのか、どう行動すべきか、その判断を常に問い続けなきゃいけないなって。

簡単に流されるんじゃなくて、自分の価値観をしっかり持つことが大事なんだって改めて感じました。

今なら、あの時の私とは違う選択ができる気がします。

『羅生門』を読んだことで、私も少しだけ強くなれたのかもしれません。だから、この教訓を胸に、これからはもっと自分に正直に行動していこうと思います。

あ、本当は私、中学時代はずっと不登校で、お家にひきこもってたんで、このエピソードは全部、妄想ですよ。てへ(ゝω・)♪

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